開発黎明期との幸福な出会い

開発黎明期との幸福な出会い


ゲスト
元日立製作所主管技師長、理学博士、紫綬褒章(1998年)
保田和雄



ホスト
佐賀大学名誉教授
只野壽太郎



ゲートランナーLLP パートナー
三巻弘



三巻:保田さん、今日は本当にありがとうございます。対談をよろしくお願いします。
今日は、臨床検査に使われる自動分析装置ですとか、その開発ですとか、そういったお話をじっくりお聞かせ頂きたいという企画で、水戸の方にお邪魔した次第です。
まずは保田さんの生い立ち、少年時代のことなどから、お聞かせて頂ければと思うのですが。


少年時代

保田:保田家の先祖というのは和歌山なんですよ。もっと詳しく言いますと、高野山の寺領が今よりも広くて、そこの僧兵も強くなったもので、源頼朝が没収したんです。その没収した所の守護職に畠山家があり、畠山家のうちの一人が保田という名前を興したというところまでわかっています。

三巻:そのルーツは保田さんがご自身で研究されたわけですか?

保田:そう。手繰り手繰りで苦労しましたけどね。

三巻:それは鎌倉時代まで遡るわけですね。

保田:そうです。その後、戦国時代に柴田勝家と豊臣秀吉の賤ヶ岳の戦いがあったでしょう。その合戦に保田宗家からは父親と息子が馳せ参じて、死去したんです。その後、領地は、豊臣秀吉の紀州征伐があったその時に没収されてしまいました。【写真:賤ヶ岳山頂の瀕死の武士】


三巻:それまではずっと、和歌山、紀州の方だったわけですね。保田さんには、水軍の血が流れていると、お聞きしていたんですけれど?

保田:水軍は、私の祖母の方の流れで、これはだいぶ昔から古いんですよ。僕は子どもの頃の教育というのを祖母から受けていたんですよ。たとえば、子どもの頃に肝試しでお墓の所に行かされるわけですよ。行ったら「お化けだぞー」ってシーツを被ったようなのが出てくるわけですよ。こっちも怖かったものだから、そのお化けをぶん殴って泣かしました(笑)。それで帰って、「お化けが出て来たんで、ぶん殴ったらお化けが泣いた」って言ったら怒られて(笑)。「お前は肝っ玉がねえからそういうことするんだ」って。「肝っ玉があれば、ただ怖い怖いと言って逃げて帰るんだ」「そんなことじゃ、船の艫(とも)に立てない」と。
船の艫っていうのは、日本海海戦の丁字戦法じゃないけれども、敵の船が来たら頭を押さえるようにぶつかっていくのです。一番最初に敵の船に艫から突撃して行くんですよ。船の艫に立つ人は、一人で行くものですから、だいたい殺されちゃうんですが。だから船の艫に立つっていうのは勇気があるということなんですね。

三巻:保田さんのお生まれは四国の愛媛でしたね?

保田:ええ。水軍の本拠地は、松山とか松前(まさき)とかありますが、一番大きい所が、私が住んでいた三津浜というところです。実は、私は中学校一年のときに、父に黙って陸軍幼年学校を受けたんです。何回か試験がありまして、最後の身体検査の前に父に気づかれてしまいました。仏壇の前に座らされて怒られました。「海軍兵学校に行くことを考えて教育してるのに、陸軍とはなんだ!」って(笑)。【写真:腕白だった子供時代、右から二人目】


三巻:陸軍は気に入らなかったと(笑)。

保田:そうそう。親戚でね、陸軍士官学校に行った人が来ても、玄関に上げないんですよ。海軍兵学校に行ったのが帰ってくるとね、座敷に上げるんです(笑)。

三巻:保田さんはどんな子どもだったんですか?

保田:子どもの時は、ちょっと変わったところはあったけれど、優等生に近かったでしょうね。小学校5年だったか6年のときには、その当時は今みたいにプラスチックモデルなんてないので、ブリキを切って、それで磁石を作って、モーターを作りました。何にも知らないで、誰にも教えてもらわえるものじゃないわけですから。丸一年くらいかかりましたかね。まあ結論から言うと、そのモーターはちゃんと回りましてね。その時の理科の成績が秀でした。その頃の成績は、優・良・可・不可という序列で付ける。その優の上の秀っていうのは、本当に珍しいんですよ。

三巻:やっぱり理科が好きだったと。

保田:ええ。それは言えますね。小学校4年くらいの愛読書っていうのが、クラーク博士の弟子の息子さんが書いた『少年科学物語』(大島正満著)でした。

三巻:只野先生は昆虫採取がお好きだったとお聞きしていますが、保田さんはやはり生物ではなく物理とかが好きだったんですか?

保田:そうですねぇ。子どもの時にうちの納屋に、こそっと実験室は作ってましたからね。

三巻:小学生の時に(笑)。それはすごいですね

保田:自分では、別段不思議だとは思ってなかったんだけど、家に訪ねて来た人は驚いていましたね。

三巻:そこでどういう実験をされてたんですか?

保田:川の水だとか井戸の水だとか田んぼの水だとかのpHをはかるとか。試薬を入れて色が変わると、これは酸性だ、アルカリ性だとかいうような。近所の薬局に試薬を買いに行きますとね、「しょうがないなあ、お前が言うなら」って売ってくれるんです。ところがそこにないからって他の薬局に行くと断られてね。その時には、学校に行って担任の先生に「先生、こうしたものくれませんか」と言って、硫酸銅とかもらいました。

只野:うちの父(只野文哉氏)が最初に科学に興味を持ったのも、小学校の時に先生から渡されたファラデーの『蝋燭(ろうそく)の科学』ですから。その実験はいつ頃まで続きました?

保田:戦争が激しくなる中学1年の頃まででしょうか。でも、理科は好きでしたから、中学校1年の時にその当時の高等学校の1年の本を読んで、ちゃんと分かりましたよ。

三巻:保田さんは昭和5年のお生まれですから、中学の入学の時はまだ戦争終結の前ですね。

保田:戦争が終わったときは、中学3年の時でした。

只野:一番物がない時代だねえ。先生達もみんな出征したりして、それこそ専門の先生がいないという。

三巻:松山中学と言えば『坊ちゃん』の中学ですね。

保田:はい。昔の藩校で、殿様が藩弟を入れるために作った学校ですね。

三巻:そうすると旧制中学のご卒業ですか?

保田:そうなんですが、そこいらの所は非常にややこしいんです(笑)。旧制中学から新制高校に行った人と、旧制中学の4年から旧制高校に行った人と。そして24年にもう一度試験があって、新制高校に行った連中も旧制高校に行った連中も同じようにそこで試験をして、そして大学1年になったんです。

三巻:そういう時代ですか。

保田:ええ。ですから同じ学年でも、2年得してる人がいるんですよ。うちの女房も2年得してます。得してって言っちゃおかしいけど(笑)。混乱期でしたからね。

只野:高等学校はどちらへ?

保田:実のところ嫌な思い出で、今まであまり言わなかったんですが、中学校1年の時に親父が亡くなりました。それから半年後くらいに今度は母親が亡くなり、私は保田本家の養子になったんですが、今度はその養父も亡くなってしまったんです。とにかく、学費がないわけですからね。そうしましたら、師範学校が家から歩いて5分か10分くらいの所にありまして、そこなら費用はかからないからと、そこに行きました。

三巻:教師を目指された。

保田:その時は、ともかく経済的に非常に混乱してたんです。ところが、僕は師範学校の付属小学校に通っていたわけですが、その時の主事先生が師範学校に通っている僕の顔を見て、「保田、お前なにしてんだ」って言うから、これこれの事情ですと説明したんです。今でも覚えていますが、「ここはお前が来る所じゃない! もっと大きなことを考えろ」って怒られたんです。それで大学を受けなおしたんです。

只野:それで、今度は名古屋大学に行くわけだ。


名古屋大学へ

保田:なぜ名古屋大学にしたかと言いますと、実は素粒子をやりたかったのです。ちょうど近所の人で京都大学に行っている方がいて、素粒子をやりたいと相談したんです。そうしたら、素粒子をやろうと思ったら京大の湯川秀樹先生だが、湯川先生のところには多くの学生が集まっている。名古屋大学の坂田昌一先生のところが良いんじゃないかとアドバイスされました。それで、坂田先生のいる名古屋大学になったわけなんですよ。

只野:湯川先生と坂田先生っていうのは。

保田:先輩後輩です。湯川先生の方が上で。坂田先生は京都大学を出て名古屋大学で教鞭をとっておられたんです。

三巻:ちょうど湯川先生がノーベル賞を取った頃ですね。

只野:素粒子も最近は実験的になってきましたが、あの頃は紙と鉛筆だけあればよかったんでしょう?

保田:そうです。大学に行ってもまともな実験は出来なかったですから。

只野:それで学科は化学ですか?

保田:最初は、当然素粒子をやろうと思っていたんです。そこで教養部の頃に、坂田先生のご自宅にお伺いして、私も強引とは思いましたが、「先生、実は私は素粒子をやりたくて名古屋に来たのですが、どんなもんでしょうか」と聞いたんです。そうしたら、坂田先生は「君は天才か大馬鹿かどっちだ?」って聞くんですよ(笑)。僕は「天才というほどでもないし、大馬鹿と言われるほどではない」と答えたら、「みんなだいたいそう言うんだよ」って。「そんな人間が素粒子をやりたいって言ったって駄目だ」って。それでも、大学院生の高橋さんという方を紹介してもらって、彼に色々相談してみろということになりました。この高橋さんというのが、「僕は小学校は別にして、中学校の時にはいつも落第候補だった。いつも私よりすぐ下の人が落第していた」と(笑)。高等学校に入っても、名古屋大学に入ってもずっとびりっかすだったと。ところが卒論の時に素粒子をやりだした途端に、頭角を現し、大学を卒業したらすぐスタンフォード大学に留学したんですよ。

只野:そういえば、山中教授と一緒にノーベル賞を受賞した人も、ケンブリッジで40人中39番だったとか。この人は大学にいる価値がないっていうのがいつもの評価だったそうですね。

三巻:アインシュタインも劣等生だったと言われていますね。

保田:高橋さんにお話を聞いてから、坂田先生にもう一度相談しました。「保田それならお前は化学に行け。化学ならまだつぶしが効くから」と言われました。それで化学に行ったんです。化学にも、無機だとか、有機だとか、生化学とかありますが、物理寄りの物理化学に決めました。

三巻:名古屋大学の化学で勉強されてたのは、分析化学ではないんですね。

保田:物理化学です。正しくはケミカルフィジックスといいます。化学物理って言った方がいいんですが。ケミカルフィジックスって言うとね、物理の人かと思われるんです(笑)。

只野:わかりやすく言うとどのようなことを研究するのですか?

保田:分子の理論的な研究です。ノーベル賞もらわれた福井さんもそうですが、有機化学では分子構造を理論的に決定していきます。そういう仕事も同じ仲間ですね。

三巻:その後、量子化学と呼ばれる分野ですか。

保田:はい。物理学の連中は、化学の連中がシュレジンガーの方程式に手をだしてとか、お互いに張り合っていましたね(笑)。

三巻:だから保田さんは基礎がしっかりされているわけですね。

只野:それで物理化学をやって、卒業した年に日立に入社したのですか?

保田:そうではないんです。その当時は就職難で、特に名古屋大学は左翼寄りだと目をつけられてましてね。ものすごく就職が厳しかったのです。

三巻:レッドパージとかがあった、そういう時代ですからね。

保田:そこで、新設の防衛大学校に行くことになりました。鈴木桃太郎先生が、助手が必要なので、二三人適当な学生を寄越せと名古屋大学に頼んできたのです。

只野:防衛大学校には何年いたんですか?

保田:建設の始めから、5年間いました。実際に研究できたのは、2年から3年くらいじゃないでしょうか。長靴履いて、防衛大学校の所まで泥道を歩いて、昼飯といっても食堂はないですから、作業員のための飯場に行ってそこで昼飯を食べました。

三巻:でも面白かったんじゃないですか?

保田:僕はあまり面白いとは思わなかったですね。ただ最初の予算はどんと出してくれた。名古屋大学でやっていたのが蛍光光度計でしたので、感度のよい蛍光光度計を作ろうというので、それを作りました。


日立へ

三巻:まだ20代ですよね。

保田:はい。蛍光光度計を戦後日本で一番最初に作ったのは僕です。それで防衛大学校に5年いて、その頃に日立でも蛍光光度計を作ったらどうだという話が出てましてね。それで名古屋大学の平田先生に日立が相談に行ったら、それを作れるのは保田しかないだろうということになり、それで日立と関係が始まったのです。

三巻:その頃は日立の多賀工場の時代ですか?

保田:多賀工場の時代です。

三巻:まだ計測器事業部はなかったですか?

保田:かろうじてあったかなかったか。あるいは計測器って名前ではなかったかもしれません。

只野:あの時はまだ多賀工場は所帯が小さかったでしょう?

保田:小さくてねえ。精機部というところに1年いて、それから新設の那珂工場に移りました。

三巻:防衛大学校も新設ですし、那珂工場も新設ですよね。

保田:そうですね、多賀工場から那珂工場に移った時には、さすがに建屋を作るっていうことには我々は狩り出されなかったですがね。

只野:多賀工場でやっていた蛍光光度計を那珂工場にそのまま持ってきたわけですか。

保田:ええ。そして、那珂工場に移った直後の頃、教育大学の大八木(義彦)先生がこんな文献があるよと教えてくれたのが原子吸光でした。ところが大八木先生も装置がどうなっているのかは分からないと言うのです。

只野:その時はまだ理論だけだった。装置はあったのですか?

保田:ないない。探せばあったんでしょうが、手元に入ったのは文献とか特許だけです。ともかくこうした理論があるよという話だけで、原子蒸気があってそこに光を入れて、光が吸収されるのかなんて、そんなこと本当に出来るのかって話だったんですよ。

只野:それは元々誰が考えついたのですか?

保田:ウォルシュ(Alan Walsh)です。残念ながらノーベル賞はもらえなかったですが。ウォルシュの論文の1年前に、全く分野が違う金属の合金屋さんが、スパークを光源にして、そこに光を通して、写真感乾板で受けたという論文があったんです。それでノーベル賞は貰えないということになりました。

只野:それで理論を聞いてから、どのくらいで実験機を作られましたか?

保田:すごく短かったですね。話を聞いて、こうやれば実験が出来るからと言って。ナトリウムランプを持って来て、その当時ですからブンゼンバーナーしかなかったんです。そこでブンゼンバーナーを置いて光を通せばいいやと。それくらいで実験はできました。

只野:最初は何がどれくらいの感度で計れたんですか?

保田:感度なんていうものじゃなかったです(笑)。要は原子吸光とは何ぞやということが分かったという程度です。しかし、その当時の工場長の牧野(勇夫)さんが、もう少し進めてみろと言ってくれたのです。そのためには光源を何とかしなければなりません。文献なんてないんですよ。困ったと思っていたら、ヒルガー・ワッツ(Hilger Watts)というイギリスの分光器のメーカーが原子吸光用の光源を売ってるという。それで牧野さんが、アメリカに出張していた人に何のランプでもいいから買って来いと。そしたら、本当に球形でタコの鼻みたいのが付いていて、これが光の出口。下がマイナスの電極で、上がプラスの電極という物を買って来ました。これを中央研究所に持って行けと。これと同じ物を作らなければならないという話をしました。

三巻:それが、ホローカソードランプになるわけですね?

保田:ホローカソードランプの最初で、みんなで勉強したわけです。その当時、ヒルガー・ワッツが作っていたのは鉄とか銅とか2、3種類の金属だけなんです。色んな原子があるでしょう、マグネシウムだカルシウムだと増えてくるわけですよ。そこで困りましてね。これを解決するには合金しかないだろうっていうことになって。その時に中研の元所長の鳥山四男先生がいて、鳥山先生が那珂工場に来られた時に、「何でもいいから分からないことは相談に来い」と言うもんで、行きましてね。「実はこんな電極を作りたいんですけれど」と相談しました。そしたらじーっと考えこんで、「そんな物を理解できるのは彼しかいないだろう」と言うので日立研究所の竹内部長を紹介してもらいました。偉い人だったんですが僕も日立の中のことを知らないので、いきなり話をしたんですよ。そしたら「いいから来い」と言うわけです。そして「こんなものを作りたいんですが」と言ったら、またじーっと話を聞いていて、「そんな合金なんて聞いたこともないし作れるのかなあ」と言って。でも「わけはわからないけど面白そうだ」って。「できるかできないかは別にしてやってみしょう」ということになり、出来たのがシンタード・メタルという焼結合金。これだったら、例えばカドミウムのように低温ですぐ溶ける物でも、網の中に染みこんだような格好になるから良いんじゃないのと。

三巻:原子吸光っていうのは光源が命で、金属に特有のスペクトルを出して、その吸収を見るわけですから、それが合金で色々な金属の輝線が出る。そういう物を作りたいということですよね。

保田:そうです。【写真:ホローカソードランプで特許賞を受賞】



三巻:でもそういうことを言ってすぐに、この人だという人材が出てくるというのがすごいですね。

只野:日立という会社は場面、場面で、そういうことをパッとやれる人が出てくる。僕はうまくいった一つの要因は、日立の人材だったと思います。それを探せるか、そういう人を集められるか。そういうことがわかる人が上にいるかいないか。中研のグレーティングもそうです。最初は何に使って良いか分からなくて、中研でも持て余していたわけでしょう。そこへある日、保田さんたちが多波長光度計の話を持ち込んで、これだと。今もがんばっているけれど、だんだん他の会社と同じようなものしか作れなくなったというのは、一つにはそういう人たちを、集められなくなった、使い切れなくなったということではないですか。

保田:どうなるかわからないけど、やってみようという雰囲気はありましたね。

三巻:論文一枚から原子吸光ができあがったなんて、今では考えられないバイタリティですね。

保田:その当時、工場長の牧野さんに、僕が分析化学の文献を読んで、一週間に一回ずつ報告していました。


偉大だった牧野さん

三巻:牧野さんがすごいというのは、どこだったのでしょう。

保田:一言で言うと、腹が太いというか。人を使うのがうまかったですね。

只野:あの方は勘が良かったですね。電子顕微鏡でも、シカゴ大学のクリュー(Albert V. Crew)さんを見つけて来て、箱根で接待して。最初はお子さんと奥さんを連れて来て、パレスホテルに滞在していました。そこに父と一緒に会いに行って電界放射型(フィールド・エミッション)電子顕微鏡の話をしたそうです。そうしたら面白いと。あれは理論的には駄目だっていうことを言われていたわけですよ。だから誰も手を出さない。だけど、何かあったら出来るのじゃないかっていう勘ですよ。もう一つ牧野さんは、さっき腹が太いとありましたけど、長い時間予算を隠してね、ジーッとやっていた。今だったら四半期でだいたいバレて駄目になるけど、どっかから予算をかき集めてやらせていた。結局完成してみたら、世界で日立しか出来ないという。

医用の自動分析もそうです。1969年に牧野さんが米国に留学中の僕に会いに来ました。シカゴのマイケル・リースという病院に見学にいきました。ちょうどアポロが月着陸をした頃ですよ。ネテルソンさんが月に持って行く分析機を開発していました。そこでピンときたのだと思います。ただ、日本に帰って来てからも色々話をしたけど、牧野さんが言うにはあれは確かに優れていたけど、圧倒的に試薬の力が必要だから、日立が簡単に手を出せる物じゃないと。その見切りはすごかったですね。

保田:牧野さんが、ああしたことを黙って許してくれただけでも大したものだと思います。

只野:それで原子吸光に戻りますが、一応機器が出来て、その後のあのゼーマンというのはどんな発想で出来たのですか?

保田:一言で言いますと、人と人とのつながりです。テッド・ハデイシ(波出石哲雄)という日系の人なんですよ。彼とは非常に仲も良かったし、僕が日立に入らなかったならば、彼のところに留学したかもしれない仲なんです。彼は、「社会に役立つ物を作りたい。物理屋が面白いと言うだけじゃだめだ」って言う。なんとか実用化できるものはないかと言う。その当時マグロの水銀が問題になっていました。マグロを食べて水銀中毒を起こした人がアメリカにいたんです。そこで、漁師でもマグロの水銀を測れないかと。そういうことを考えて、漁師でも測れて、しかもそのマグロの水銀が多かったら元へ返せばいいと。注射針みたいなものでちょっと筋肉を刺して、測れるようなものは出来ないだろうかと。原子吸光では、肉を燃やすわけだから煙が出るわけですよね。その煙の除去をどうしたらいいかと言うので、縦偏光で吸収を取って、横偏光でバックラウンドを測るということを考えたのです。そして水銀の分析計を作ったのです。それを日本のとあるメーカーやパーキンエルマーにも見せたらしいのです。ところが、水銀しか測れないんじゃだめだ、他のも測れないようじゃ困るということになって、これらのメーカーはあきらめたようです。その次に僕が見に行って、これは面白いと言ったんです。そうしたら、本当にこれは他のことにも使えるのかって彼が聞くものですから、当たり前だと答えました。
実は、その前1969年頃に、プルーガーという物理屋さんがツァイスにいました。ツァイスのフレームは、すごい音が出るし、バックグラウンドのノイズレベルも大きいのです。それにゼーマン効果を使えば良いということを学会で発表しました。そこまでは良かったんですが、ツァイスでは実用化されませんでした。お互いに競合相手ではあるんですが、彼とはなんか変なことでお互いに気が合いまして、馬鹿話をよく話していたのです。彼のお爺さんが日本の大使館付きか何かで来日していて、浮世絵などを集めてたいそうです。それで日本という国に親しみがあったのかもしれません。それで、ゼーマン効果というのは、こういう風に色々使える可能性があるよと。だけど、そこまで一般化できないというのは、どうしたらできるんだろうなどと話し合っていたのです。僕はその時に、ゼーマン効果ではマグネットが大きくなりすぎるからシュタルク効果くらいでどうだろうかとか言っていたんですがね。二人でプラハでビール飲みながら話したりしたんです。
こんなことがあったものですから、ハデイシ先生のゼーマン原子吸光というのは、これはいけるということがすぐに分かったのです。ハデイシ先生に装置を日本に持ってきて、日立に見せてくれますかと聞きましたら、良いですよと言う。それを牧野さんに報告しました。そうしたら、牧野さんが、工場の専門家にその話をしたんです。結果は専門家から、1/100ナノメーターの分解能の持つには、3メートルくらいの分光器がいるということになりました。磁石の専門家は15キロテスラくらいの磁力を与えなければならないとすると、磁石だけで1トンから3トンくらいになると。牧野さんがそんなもの商品になるのかとネガティブなコメントを僕に寄こすんです。物理の専門家からすれば、化学屋がよくわかりもしないでゼーマン効果なんて言っているが、眉唾ものですと言ったのかもしれない。困ったなあと思いました。そこで、失敗してもせいぜい300万だとお願いしました。その時の木村(博)工場長も保田に一か八かでやらしてみたらどうだということになったのです。

三巻:それがゼーマン誕生の舞台裏ですか。

保田:それが最初です。さらに牧野さんが偉いと思ったのが、後日ゼーマン原子吸光が完成した時に、関係者が集まった席で、「実は最初に保田から話しがあった時に、自分は反対した。しかし、今になって考えれば、反対した自分が間違いだった」と。こういうことを大勢の前で、ぼんと言われるわけですよ。牧野さんの偉いところは、自分の悪いところは悪いと認める事なんです。

三巻:それは立派ですね。

只野:ところで、どういう工夫で小さくなったのですか?

保田:ランプに磁場をかけず、フレームの方に磁場をかけたのです。ハデイシ先生がやったのは光源磁場といいます。日立がやったのは試料磁場です。マグネットを冷却しておけば全然どうということはなかったです。

只野:完成した時には、日立の本社から取締役とか偉い人が来て、髪の毛を抜いて実際にその場で水銀を測ったそうですね。

保田:その頃、父上の只野技師長が那珂工場に来られた時に、すみません白髪一本くださいって頼んだことがありますよ(笑)。そうしたら、白髪には水銀が少ないんですよ。

三巻:白髪には水銀が蓄積されにくいのでしょうか。

保田:うん。逆に一番多かったのがシモン(Wilhelm Simon)さん。あれっと思うほど高かったですね。「シモンさんの水銀多いよ」と言ったら、ETHの教授室が古いので、水銀が蓄積しているのかなあって。

只野:マグロは元々水銀をためやすいでしょ。白人も水銀をためやすいんですよ。ニューヨークのレストランでは、マグロは何切れ以上出さないというところがありますよ。日本はたくさん食べるけど、水銀中毒がいないのはどういうわけとニューヨークにいる娘から聞かれたことがあります。日本人は白人に比べて排泄が良いんじゃないかとね。シモンさんも貯めてたのかもしれないね。それでゼーマン原子吸光の後が臨床自動分析ですか?

保田:自動分析の研究を始めたのは1965年頃です。

只野:吉田霞(かすみ)さんにバトンタッチしたのはいつ頃ですか?

保田:1968年頃でしょうか。

只野:自動分析の特研が始まったのが、73年頃でしょうか。キックオフで中研に集まり、これからはこれで行くと喋ったのが、たしか73年ですから。

保田:その頃、実は只野技術長に助けていただいたんですよ。自動分析をブラックボックスにすべきか、ユーザーにオープンにすべきかという問題です。今で言えば、オープンかクローズかということです。オープンにすると機械が面倒になってくるので嫌だなと思いましたが、相談できる人がいなかったのです。最後の最後に只野技術長に会いまして、どっちが良いでしょうかと相談しました。只野さんも困ったでしょうね、いきなり電子顕微鏡と違う話を出されたもんだから(笑)。その時に只野技術長から言われたのが、ユーザーの立場からみたら、どちらが良いのかということです。それからもう一つ言われたのが、日立にはユーザーのことがわかる人がいるのかということです。

三巻:当時はいなかったんですね。

保田:つまりユーザーの視点に立って考えろということですね。そういうような結論になった。それで一気に400形の基本形ができあがったのです。

只野:そもそも自動分析を日立がやろうという発想はどこから出てきたのですか?

保田:これも一番最初は牧野さん。1960年頃です。【写真:NIHに滞在中の頃】

只野:基本構想はその頃ですか。

保田:いいえ。その時の構想はテクニコンを真似ていました。

只野:69年に私がアメリカにいる時に牧野さんが来られて那珂工場では今こんなことをやっている言ってましたからね。


保田:それは400(400形自動分析装置)のプロトタイプの頃ですね。

只野:牧野さんはなんで自動分析に興味を持ったんだろう。

保田:あの頃のテクニコン社をフェデレイション・ミーティングの展示会で見たらね、それはすごかったですわ。展示ブースの一番端っこにサンプリングする所があって、あるところでは炎光光度計があり、ナトリウム、カリウム測り、そこから塩素イオンを測るクーロメトリーがあって。その後には吸光光度計があってね。それらがずーっと並行して並んでいてね。牧野さんも、うーんと言って見ておられたんですよ。僕も横で、うーんと言って見てたんですよね。

只野:そういう意味では電子顕微鏡はいいところまで行ったけれど、片方の光学のグループをもっと応用して一つのものにまとめなきゃいけないと思っていたのかもしれない。それでたぶんテクニコンの分析機を見て、これなら組み合わせればできないことはなさそうだと思われたのでしょうね。

三巻:当時は、テクニコン帝国でしたからね。それまでの光学装置の設計部というのはどうしても研究室向けの理化学機器でした。理化学機器から臨床自動分析に転換するということは、市場も全然違います。

保田:ええ。それまではシステム的な指向というのはあまりなかったですから。

三巻:そういうことが本能的にぱっと分かるっていうのはすごいですねえ。

保田:それで、牧野さんが私に部長会議に出て自動分析の話をしろと言うのですよ。それで話をしたら、部長さん連中全員が反対したの。賛成してくれたのが牧野さん一人なんですよ(笑)。

三巻:その時牧野さんは工場長ですか?

保田:ええ。それで困ったなあと思ってね。というのは、赤い職印がないとお金を使えないんですよ。僕はその頃はまだ主任だったものだから、赤いハンコじゃないわけですよ。そうしたら牧野さんが工場長室に勤労課長を呼んで、保田が持ってくる仕様書には分からなくても良いから赤い判を押せとね(笑)。次の問題は、設計する人がいないわけですよ。部長さんはみんな反対してるから。

三巻:保田さんの直属の上長も反対だったわけですか?

保田:反対だった。それで困ってねえ。そしたらその当時、図面書いて世渡りしてる連中が工場に出入りしていたんですよ。これだと思ってね。その連中を呼んでね、仲間を集められるかと聞いたら、集めますって言うわけ。今図面(A4)1枚でいくらもらってるんだと聞いたんだよ。向こうもだいぶ吹っかけてきて250円ですって。じゃあ俺はその倍の500円出すと。それで、こんなもんだと構想を話してね。そして締め切りは何月何日の夕方の5時と。ということで、だけど100%の図面を書かなければダメだよと。そうしたら、日立は金払いが悪いとかなんとか言うんだ。そこでポケットから100万円の札束ね、正直言って、見せるだけなんで正しくは100万円をちょっと切ってたんだけどね、ここに100万円あるよと。何月何日の夕方5時までに完成すれば、これ全部取れるよと。だめだったら全部ゼロだよと。どっちにするんだって。そうしたら、書いて来たわけです。それを設計の関係者に見せたら「保田さん、これじゃものにならん」と言うわけですよ。いや、ものにならんかもしれないけれど、日立の重い車を動かすためだと。最初は失敗するかもしれませんが、二回目に成功すれば良いんだと言ってね。牧野さんはテクニコンのような装置を思い浮かべてたんです。でも僕が構想していたのは、その後の400形のようなディスクリートの機械でした。

只野:もう一つは、当時アメリカの遠心方式の機械で、これが世界を席巻するって言われていたのがありました。

保田:はい。アンダーソン・マシンっていうやつですね。

只野:それを弁護士連れて買いに行ったのですよ。そしたら、この米国特許は敵国だった日本には売れないって言われて、諦めたそうです。それで日立はディスクリートになったわけ。テクニコン方式もダメ、遠心方式もダメでね。

保田:遠心方式はね、逃げようと思ったら逃げられたんです。日立の現地法人があるでしょ、米国内で作れば良いっていうわけですよ。そこまで追い詰めたんだけれども。

三巻:でもやらなくてよかったですよね。

只野:やらなくてよかった。

保田:まあ結果としてはね(笑)。

只野:八方塞がりの中から、今のような、基本が出来たのは案外よかった。つまり、人がピペットと試験管でやっている事を、言ってみれば機械に移しただけのある意味単純な発想が日立には向いていたのでしょう。

保田:そうしたら、今度は北村(元治)先生から除蛋白しなきゃいかんと言われたんですが、除蛋白はやりませんと。あれは入射光の立体角を小さくすれば、妨害成分の粒子がいっぱいあったとしても、影響しませんからと説明しました。テクニコンのフロー方式のように化学の匂いのするようなものではありません。機械の匂いの強いものですという話を牧野さんにしたんです。そうしましたら、私がしばらく出張に出ていて帰ってきたら、上司から「保田、お前あの自動分析はもういいから」と言われまして。「あれは吉田霞さんにやらすよ」と。そうしたら牧野さんは、「保田、怒ってないか?」って心配していたそうです。でもね、僕にハードをまとめるっていうか、ああしたメカのお化けみたいなものをまとめろというのはこれは無理です。むしろ吉田さんみたいなメカ屋さんの方が良いと私は思いました。牧野さんがそこのところを思い切ってバッと切り替えたんです。

只野:やっぱりうまくいった要因の一つは、あなたと吉田霞さんの組み合わせですよ。僕は72年9月に初めて、牧野さんと吉田霞さんから工場の小さい部屋で、こんなことやるんだって聞きました。私が毎回日立の技術指導に行くと、かなり急進的な日立にできないようなことを言う人がいるわけです。一方で、超保守派っていうのもいる。吉田霞さんはあまり口をきかないんだね。けれど最後にね、ちょうどうまい、ある程度がんばればできる、それなりに安定したものになるだろうってところに、毎回話を落とすっていうね。絶妙な感覚があって。それがああいう複雑な機械がうまくいった原因じゃないかって僕は思っています。だから今にして思うと、牧野さんが保田さんの後を吉田霞さんに任せたっていうのは、そういう所をよく見ていて、変えたのかなって思います。

保田:僕に装置をまとめて全部見ろっていうのはね、原子吸光くらいならなんとかなるかもしれないけど、自動分析のような大きなものになってくると、それはやっぱり機械の人の方が良いと思うんだよね。牧野さんは、この次にこの人、この次にこの人というのをね、人を見抜く目を持ってたなあ。

三巻:そういう意味では人材にも恵まれたっていうことですよね。

保田:恵まれたっていうか、そうした人を育てるっていうね。それだけの器量があったんだわ。だって西脇(耕治)さんのようなね、あんた何やってるんだっていうような人。会社に来てさ、自動車のキャブレター直してるんだもん。それを牧野さんが見て「西脇、何やってんだ」と。「自動車で来ましたが、調子がおかしいもんですから、それを直してます」。それで牧野さん「西脇、仕事があって良かったなあ」(笑)。
ところが売れに売れた101形分光光度計、あの分光光度計の回路設計っていうのは、開発に2人から3人で2年かかっていた。そして最初の作番(商用生産のロット)を出したときに製造課長が、これじゃいかんと言うわけね。で西脇さんになんとかならんかって相談した。西脇さんも、そりゃ出来ませんって言ってね。でも、西脇さんはぶーぶー言いながらも、分かったって言ってね。それで2時間後の午後の3時半くらいに回路図を書き上げちゃったんです。その後、電気屋さんに今晩一晩でこれ作れって言ってね、次の日の朝ちゃんとしたものができ上っているわけだ。

三巻:2人の人が2年かかってできなかったものを半日でやっちゃった。

保田:もっと短いです。彼にはそれだけの力があるというようなことを牧野さんはちゃんと見抜いていたんだよ。そうした人を見抜く目。力のないマネージャーが上に立つとどうにもならない。


トレーサビリティーへの挑戦

只野:やっぱり人に恵まれたっていう意味では、日立の中からだけじゃなくて、野村(靖)さんに来てもらった事も大きいですね。あの人が来なかったら機械はできるけど、北村先生が言うようなのはできなかったと思います。北村先生は化学屋さんだから、本当にぎりぎりまで精度を追求して、それで日立の機械は育てられたと思うんだよね。無理な要求にも、とことん付き合ってね。当時、僕は臨床というのはそんなものじゃなくて、コレステロールなんて2日くらい経って結果が出ても良いのだし、10%くらい狂ったって診断なんて違わないんだから、どうでもいいと言ったんです。そうしたら、北村先生は、やっぱり計りの目盛はきちっと細かくしとかなきゃいけない。10センチ単位で測ったら見えないものが、1ミリ単位で測ったら何か見つかることがあるかもしれない。浜松医大の菅野さんに呼ばれて、北村先生とお前は正反対だから、座談会をやれと言われて話したわけです。
しばらく経ってから、北村先生から「只野君、面白いことが見つかった」と連絡がありました。うちの患者さんのデータを見ていたら、肝機能がじりじり良くなってく人がいるが、なぜそうなるのかわからなかったと。院内の噂によるとその患者さんはどうも処方された薬を捨てているようだ、それで看護婦にゴミ箱を探させたらやはり捨てていたそうです。肝機能を良くするために処方した薬だったのに、飲まなければものすごくゆっくりですが、肝機能が改善しているのが分かったそうです。

三巻:その薬が実は肝臓に良くなかったということですね。

只野:こういうことは、君が言うような10センチの物差しでは見つからない、それが分析機の精度ですよと言われました。北村先生に鍛えられた日立は、非常に精度を良くしました。やはり人ですよ。野村さんがそれに応えたわけですから。

三巻:そうですね。やはり野村さんがいてくれたおかげで、ちょうど臨床検査と分析装置の間をうまく繋いでくれたのだと思います。非常に突飛な、個性が強い方でしたけど。野村さんを見出されたのも牧野さんですか。

保田:いやそれは僕。

三巻:保田さんですか。ではそれを是非お聞かせください。

保田:実は二波長分光光度計を開発するにあたり、この分野に詳しいのは、名古屋大学の大西先生、この方はものすごく頭の良い人なんだ。もう一人が鹿児島大学の野村先生ということになったわけです。それで、開発を始めるにあたり、野村先生にも一言挨拶をしてこなきゃいかんなと考えて九州に行ったついでに鹿児島に寄ったんです。そうしたら野村先生は、ハードウェアの話を、野村流で延々とやるわけなんだよ。こっちは、装置メーカーの人間だから、そんなことはどうでもいいよと思ったんですが(笑)。まあそれなりに聞いていたら、もう一方でバイオロジーの話についてもそれなりに知識がある。だからハード屋の話を分かってくれるなと感じたのです。それで「先生、時々は技術指導のために那珂工場に来てくださいよ」とお願いしました。そしてある時、野村先生が技術指導に来て帰る時、玄関の前で「先生、実は日立もバイオケミストを探してるんだけど、誰かいないでしょうかねえ」と話しかけたんだけど、そしたら野村先生が「そういうのに合うのは……」と言ってね。「保田さん、俺でどうですか」って言うんですよ。「えっ」と思ってね。「これはしめたな!」と。そうして、野村先生をタクシーに乗せて帰したあと、牧野さんの工場長室に行って「野村先生、話如何によっては那珂工場に来てくれますよ」と報告したんです。そうしたら、その時の牧野さんがすばらしかった。次の日の朝には、野村先生の上司だった教授に電話してアポイントメントを取ったんです。

三巻:それですぐに鹿児島まで飛ばれたんですか?

保田:そう、鹿児島まで飛んで。だから牧野さんは、この人間は大事だってピンと来るんだよ。

三巻:でもその時の野村さんと言ったら日立に入る前ですから、まだ三十歳になるかならないか。それを先生、先生とおだてて(笑)、保田さんも大したもんですよ。保田さんだってその頃はまだお若かったでしょ?

保田:主任技師になったかならないか。40よりは前だろうと思うんですが、まあ30代後半でしたね。

三巻:我が社にはバイオケミストが必要ですからって、課長にもならない人が話をして、それに対して牧野さんのような立場の人が反応してすぐに飛んで行くっていうね。そういう会社の動きっていうか人の動き。

只野:あの頃は、そういうことがあったですね。たとえば電子顕微鏡だと徳安(清輝)さんですよ。九州大学で解剖の助手をしていました。昔はホルマリンのプールに死体を何十体も入れていたわけです、そういう部屋にいて助手をしていた人を、電子顕微鏡の専門家だっていうことで那珂工場に連れて来て、その後中央研究所に移りましたが。最終的には、日立にいてもこれ以上のポジションは望めないからアメリカに行けって私の父が言って、カリフォルニア大学に移りました。今でもカルフォルニア大学のサンディエゴ校で仕事しています。80を超えていますがまだ現役で働いています。電子顕微鏡の大家ですよ、とくに試料の製作に関しては、徳安法と呼ばれるほどです。ガラスの切片で試料の薄切を作るのです。

三巻:その方も牧野さんが?

只野:牧野さんですよ。うちの父が連れてきて、牧野さんが那珂工場で雇って。

三巻:やっぱり人を見極めて、その人を受け入れるという、そういうキャパシティがものすごい大きな方だったんですね。

只野:あの当時はね、自動分析で利益が出ていたわけじゃないんですからね。あの当時のテクニコンの勢いだったら、今の日立だったら手を出しませんよ。

保田:そうだと思いますね。

只野:勝てっこないと思っちゃって。今で言えばiPhoneに対抗して、何にもない会社が、やるようなもんでしょ。世界中を席巻していたわけだから。それをとにかく何とかしなきゃいかんと思ったのが牧野さんと誰だったっけ。

保田:小沢(重樹)さん?

只野:そう小沢さん。あの人がね、僕が那珂工場に行った時に便所で一緒になったんですよ。そしたら、「とにかく只野君、米英撃滅だ」と(笑)。

三巻:なにしろ小沢提督ですから(笑)。

只野:そうそう(笑)。あの頃は撃滅だなんて言ったって、こっちは駆逐艦一隻くらいしか持ってないのに、向こうは大戦艦ですからね(笑)。それでもあの勢いですよ。ただその一つの裏付けが、技術的には二波長分光のような基本的かつ基礎的な技術も持っていたということ。それから、大きな特許「シングル(ライン)マルチ(アナリシス)」とかを持っていたことですかね。あんなものを本当に良いのかねっていう感じもしますが。

保田:あれはね、装置側からの要求と理論と日立のものつくりの技術と、そういう3つか4つの要素が、ずらーっと一つにまとまったんです。それがうまくいったんですね。

只野:結局できなかったんだからね、どこも。

保田:その理由はね、実は非常に単純だったんですよ。濁った試料の内部を測定するためには、立体角を大きくしなきゃいけないということだったんですよ。この検知器のすぐ前に試料を置くようにする。そうすると細胞の中に隠れてるものの信号が取れるわけです。ところが逆に、濁ったものを観測しないで、溶液の方を測定するには立体角を絞らなくてはならなくなったんです。それが今の後分光といってるものです。光源があって試料に光を通すでしょ、その後に分光器があるわけです。だから結果としては立体角が狭いわけです。後から分光するので、同時に多くの波長の光を同時に測光できる利器もあった。

只野:それともう一つの基本は、吉田さんのポンプとか切換弁の技術でしょう。液クロでは失敗して苦労してね。ああいうものがキー(鍵)だっていうことだね。

:逆に言えば特研の頃、吉田さんが開発したピペッターですとか、ディスペンサーですとか、いまだに使ってるんですからね、ほとんど変えずに、もう30年か40年でしょう。40年経っても同じものを使ってるんですからね。

保田:佐草(寿幸)君がね、切替弁を1年がかりで精度が出るとか、出ないとかやってるわけよ。吉田さんが色々言ってるんだけれど、佐草君はわかったみたいで、じゃあ今度これやってみますって。それを吉田さんはじっと辛抱して。最後にできたのが、温度管理が必要だと。弁と弁座で材料が違うわけです。するとこちらの膨張率とこちらの膨張率が違うと。それをどの温度で組み合わせるかというところまで行っちゃった。聞いてみれば。なんだそんなことかと。それをじっと辛抱して。見抜くというのは。やっぱりメカ屋さんじゃないと分からないと思いますよね。

只野:大分経ってから、吉田さんと飲んでいた時にデジタルになって機械作りが面白くないって言っていました。「只野さん、差別化ができなくなりました」と言ったのね。テレビとかもそうでしょ。デジタル化は、画期的な技術進歩がないですね、どこのメーカーも全部だいたい同じ。それでは価格競争だけでやるしかない。

三巻:吉田霞さんの頃の設計っていうのは、パルスモーターじゃないんですからね。パルスモーターっていうのは自由にどこの角度でも止められる。でも吉田さんの頭ではパルスモーターなんて使わなくても全部カムと歯車で出来ちゃうんですから。そりゃ吉田さんにとっては、パルスモーターなんて面白くないですよ。

只野:それから、じっと我慢したのは、保田さんが持って来たいかがわしい電極ね。シモンさんの(Wilhelm Simon, スイス連邦工科大学教授)。あれだって誰もできるとは思わなかったのじゃない。原理は分かりますよ。だけど実用化できるなんて、あの当時考えていた人はいますかね。イオン選択の膜を一日かけて張って作ってね、全部だめとかね。

三巻:シモン先生ですら、まさか液膜型イオン選択電極がここまで臨床の世界で普及するとは想像もできなかったのではないでしょうか。

保田:それが僕には非常に悲しいんだわ。理由は、1989年にシモンさんはノーベル賞候補に挙がっていたんです。ただ、その時はまだ時期がちょっと早かった。炎光光度計がまだ完全に電極法に置き換わっていなかったから。

三巻:1989年といったら、われわれが塩素電極で苦労している頃でしょうか。

保田:そう。

只野:ノーベル物理学賞や化学賞も、やはりそれを応用した製品が全世界に広がってそれが健康のためになったか、それが受賞に影響しますよね。

保田:どうしてもそれは出て来る。人類のためにどれだけ役に立ったかっていう。

只野:シモンさんとのきっかけは何だったんですか?

保田:特研が始まる時に、1972年だったかと思います。話せば長くなるんですが、もともとシモンさんは、GC-MSのようにガスクロと質量分析計をハイフンでつなぐような分析化学を得意とされていた。そのシモンさんが電極に目を向けたのは、シモンさんの先生からETH(エーテーハー:スイス連邦工科大学の略)の教授というのはノーベル賞をもらえるような仕事をしなければだめだと。今のような仕事ではノーベル賞はもらえない。少し仕事のテーマを変えろということを言ったらしいんですよ。そこでまず最初にカリウムの電極をシモンさんが作って。カリウムの電極は、天然化合物のバリノマイシンがカリウムと結合する性質があることが分かっていたのでそれを使った。それからナトリウムには、合成したクラウンエーテルを使った。それ以外にも色々と考えておられたんですが、ちょうどノーベル賞の話の時は、カリウムとナトリウムの二つで推薦が出たわけね。けれども、まだ世の中に十分貢献してないよと。シモンさんも頭にきたみたいなんだけれども、僕が見るのはもう一息がんばらなきゃいかんと。それには世界中から炎光光度計が全部なくなるくらいになれば良いと思うよと。ノーベル賞の選考委員というのは秘密なんですが、私はフィンランドの教授を一人知っていまして、その人がこういうわけでシモンさんはもらえなかったと言うわけです、俺も悔しいんだと。一つは出す時期が早すぎた。もう一つは塩素のようなものも測定できること。塩素っていうのはイオン結合で測定するんですが、それをクラウン化合物で測定するようにできないかと。クラウン化合物にできないならば、世界中に普及させて何年後かにもう一度ノーベル賞に挑戦しようと。まあ内緒の話ですけれどね。今初めて言うんだけれど、そういう話だったのです。その前にシモンさんは亡くなってしまったのです。ノーベル賞は死んだらもらえないんだよ。

三巻:まだ、お若かったですよね。

保田:歳にしたら六十九。

只野:しかし、あれはある意味では分析機の中での一つの大きなヒットですね。

保田:そのシモンさんを連れて来たのは誰かって言ったら、牧野さん。

三巻:やはりまた牧野さんですか。

保田:うん。牧野さんに何でシモンさんに目をつけたんだって言ったら、実はパーキンエルマーのマクドーネル社長から紹介されたと。若いけれど、優秀で将来楽しみな人材だと。日立のコンサルタントにしたらどうなんだと。それで牧野さん、よっしゃーと言うんで連れてきたんです。

三巻:それもちょっと良い話ですね。お互いに同業の会社なんですが。

保田:マクドーネルも、人を見抜く力がありましたね。実はぼくがパーキンエルマーに駐在していたときに、マクドーネルにしょっちゅう呼ばれるんだよね、社長室に。行ってみるとテーブルの上には何もないんですよ。うちの工場長の机の上は資料の山ですが。あんた書類もなくて何考えてんだって聞いたら、戦略をどうしたらい良いか考えてんだって。そのような会話の中で、彼が言ったのが、俺はお前のような人間を探してんだと。その当時は1970年代のはじめでね、飛行機の止まるっていうのは今みたいじゃなくて、各国に大きな空港一つくらいしかないわけですよ。各国に降りたところに必ずその分野で有力な知人がいる。そんな人はパーキンエルマーにはいないんだって言う。僕は、たとえばハンガリーのブタペストに降りて晩飯食おうって思ったら知人が2人いましてね、1人はプンゴールさんって言って、日本でいう科学技術大臣になった人ね。それともう1人は研究所の研究員。その片っぽの男の方が歳は若いの。そっちに電話して夕食を一緒にし、その後3カ所くらい飲みに行った。マクドーネルは視野が広く、僕の人脈というのに注目していた。

三巻:それは、もうヘッドハンティングされてたということじゃないですか。

保田:マクドーネルは、パーキンエルマーの現地法人を日本に作ろうとしてたの。その時にコンサルティング会社に頼んだのでしょう。その会社がぼくに電話を掛けてきて、会いたいと言うのです。

三巻:日本法人の社長をやらないかっていうようなことだったんでしょうね。

保田:給料いくらもらってるって言うから、俺は知らねえと。なんで知らないんだって言うから、そんなのは女房のやることで、俺には関係ねえって。日本人は、変わってるなって思ったみたいだよ(笑)。マクドーネルの見方っていうのは非常に面白いんです。ゼーマン原子吸光を日立が最初にやったでしょ。パーキンエルマーの人間がそれより先に、ゼーマン原子吸光はものにならないっていう報告をしていた。マクドーネルは、その部長を首にした。何で日立の保田が目をつけたことをお前は分からないんだって。

三巻:そろそろ終わりに近づいて来たんですが、ずっとお話し頂いてきたこの分析化学に使う機械と、臨床化学に使う機械がありまして、保田さんの最初の頃のキャリアは蛍光光度計ですとか原子吸光ですとかが、やがて自動分析になりシモン先生のお話もあってですね、イオン選択電極のところでどうやってデータを分析化学のデータから臨床化学のデータにするかという、その辺のところが最後の自動分析の仕上げのところだったんじゃないかなと思うんです。あの時は大変苦労もされましたし、桑先生とのお仕事もあったと思うんですが、その辺のところはどうですか?

保田:実は、あの電極に関しては、学会でシモンさんにものすごく非難が集中していた。

三巻:学会の中でですか?

保田:ええ。もう色んな学会があるとね、もっぱらシモンさんのやり方が悪いからだと。シモンさんの研究が怪しいからだとかね。みなさんにどんどんやられるわけ。お弟子さんに聞くと、いつもシモンさんは、ああした学会から帰って来たあとに憂鬱になって落ち込んでたって言うんだよね。日本でも電極で測ったものっていうのは、もうバラバラだったんですよ。結論から言うと、電極云々する場合にはトレーサビリティがはっきりしないような標準品を使ったらだめだよと。そこで日本では斎藤正行教授をチーフとするワーキンググループを作ったのです。一次の標準血清を開発し、高低濃度の二次の標準血清試料を作って、日本の会社あるいは大きな病院に配って、あなたたちの装置はこの血清では補正しなさいと。そしてその後、分析試料の値を出してくれと。そうしましたらね、今までこんなにバラついてたのが、しゅーっと収束するんです、小さく。うわーっと思うくらいびっくりした。それを1986年のグラーツの国際会議で発表したんですよ。こんなにバラついていたのがトレーサビリティをはっきりさせることによってこういう風に小さくなったと。自分勝手な標準物質でキャリブレーションしてデータを出したらだめだと。日本で作った標準物質を使えばこうだったと。そしたらシモンさんは喜んでくれてね。いやあ保田よく言ってくれたなあって。われわれの英語は流暢ではなかったかもしれませんが、トレーサビリティをはっきりさせなきゃいかんと言うことだけは分かってもらえた。そして今まであったシモンさんへの批判っていうのは、ドンっとそれでおしまいになった。【写真:IFCCの血液ガス・電解質分科会で桑克彦先生と】


只野:医療の検体分析で、国際的な標準試料の考え方が出て来たのは電解質で初めてなんですよ。ただし、標準資料はアメリカのNBS(現NIST)、が全部持っていたわけですよ。だけど、トレーサビリティーなんて考え方は、全く普及していなかった、もともとそういう発想は臨床化学にはなかったですよ。

三巻:一時標準とか二次標準とかああいう概念を臨床化学の人が分かるようになったっていうのは確かに電解質からですね。

只野:そう、電解質ですよ。なぜなら電解質っていうのは極めて僅かの変動で命に関わるわけです。特にカリウムなんかね。だから当時一般に測った値で、たとえばAとBの病院でやってみてあんなに違うのだったら、片方死んだり片方生きたりするのが当たり前です。それは誰だって文句を言いますよ。臨床にはファジーでも許容される部分がありますが、電解質にはそれが許されません。血液ガス分析もそうですが、数値が直接人の生死に関わるから。

三巻:炎光光度計は、原理的にそういう検体由来の外乱には比較的強かったですからね。

只野:そうですよ。

三巻:電極はやっぱり接触反応ですから汚れたりですとか、タンパク質が入ってるとなんだとか、色々誤差要因が多いから混乱したんでしょうね。

保田:固体での反応っていうのは全然わかっていなかった。養生という概念がなかった。

三巻:馴染みですね。

保田:それをやらないといけない。実際担当している人がそこに全然気づかないものだから、僕はある時、養生(キュアリング)の話をしたんです。メンバーの話から、ここは使えるけどここは使えないなとか。ともかくキュアリングしなきゃいかんよと。その話を誰かがシモンさんにしたらしくて、そんなこと言う奴は誰だ、よくわかったなあと。やはり保田かと。

只野:僕は日立の自動分析機は極めてうまくいったと思います。でも残念なのは情報系の取り組みです。臨床検査の情報システムは、追いつかれちゃった。一番病院の中でデータ量の多いのが、臨床検査ですよ。最初に文部省が大学病院のコンピューター化を言った元々予算項目は事務合理化推進費です。窓口業務の金勘定から始まった。その時は日立も東芝も富士通もNECも横一線でした。僕は佐賀医大の診療情報部長も兼務していましたが、医療情報を活用するには検査室が協力してくれないと動かないわけですよ。日立は自動分析機という宝の山を持っていのに、病院情報管理に一切力をかけなかった。医療情報こそが本当に医者は何が欲しい情報だという、理念とか哲学を持った人が日立にはいなかった。

保田:それは俺にも責任があるなあ。


生涯現役

三巻:それでは生涯現役の話ですが、以前、保田さんはもう一度物理学の勉強をしたいと仰っていましたね。

保田:そうなんです。私の疑問は、分子一個、原子一粒でその性質を示すか示さないかということなんですよ。結論から言うと、原子は10個か100個か分からないけれど、ある程度集まらないとその化学的性質を示さないのです。

三巻:鉄の原子が集まると鉄という金属になりますが、鉄の原子が1個あったとしてもそれは鉄の性質を示さないと。

保田:はい。例外はあるかもしれないが、要は1個じゃ駄目だと。

三巻:とすると、鉄の原子が1個、銅の原子が1個あっただけでは、それは銅でも鉄でもないと。

保田:そういうことです。最近のレアアースだとかっていうのも、言うなれば何かの原子を10個持って来てそれに1個ぶち込んだらレアアースの性質を示すようになるんじゃないのと。

三巻:そう来ましたか、なるほど。

保田:そのためには、熱力学のアクティビティ、活量係数が何であるのかということを解けばいいよと。

只野:つまり、合金をどこまでも小さくしたらその性質を失うんですか?

保田:それがこれからの仕事でしょう。

只野:その限界は、鉄と銅とでは違うのでそうか、鉄は10個とか、銅は3個とか。

保田:それは分かりませんが、塊の単位が、原子という性質を持つんじゃないのと。だから原子は作れるもんだろうと。

三巻:それはすごいですよ。

保田:実を言うと、お父様の只野技師長にその時の僕の論文を送ったんですよ。返事はいただけなかったんだけど。お歳もお歳だったから分からなかったということもあるだろうし。

三巻:それは電子顕微鏡の論文ですか。

保田:うん。木村さん(木村博、元、日立メディコ会長)にも渡したんです。そしたら木村さん曰く「俺はお前の言うことが分からん」と(笑)。木村さんは、以前電子顕微鏡の学術誌の巻頭言で「我々は観察するだけではなくて応用ももっと含めるべきだ」と書かれたんです。ですから、それはそれで良いと思ったんですが。

三巻:レアアースもそうかもしれませんが、それは古い言葉で言えば錬金術ですね。だから9個まではくだらない金属であったとしても、1個何かを加えたら金になると。

保田:そうそう。

只野:半分の値段で金が出来るとか。

三巻:それは今でも研究されてるんですか?

保田:それが難しいんだわ。

三巻:それこそ紙と鉛筆さえあれば研究できるんじゃないですか?

保田:文献が必要なんです。論文っていうのが手に入らないんですよ。インターネットで大体は分かる。ところが、中身の細かい所までは分からないんです。

只野:保田さん、学術論文のデータベースはすごいですよ。世界中の論文が出ていて、どこの図書館にあるかって分かると、何でも送ってくれますよ。有料のもあるし無料のもある。

保田:そうですか。僕が今一番困ってるのがコンピューター。そうした論文を読み込むことが出来ないし。

只野:今おいくつでしたっけ?

保田:八十三です。

只野:いいですか、これから二年間は、ひたすら若い人に近づく努力をする。コンピューターを普通程度に使えるようになりなさい。僕はね、六十五で定年になってから5年刻みの計画を立てたのです。七十まで、今度は七十五まで。それで今年七十六だから、八十までだよね。その間に何をするかっていう程度目標を決めます。まだ、朝は6時に起きて働きに行きます、それでも5年間あれば何かやれますよ。三巻さんもそうですけど、人脈っていうか色んな人たちと一緒に何かプロジェクトをする。だからまずね、まだ遅くないから2年間ひたすらコンピュータの勉強をしなさい。パソコンはかなり便利です。情報を出したり入れたりに関しては世界中どこでも繋がります。全ての資料が自分の周りにあるということです。

三巻:そうです。論文なんてのは図書館に行かなくても、手に入りますよ。

只野:図書館で書籍を借りることがなくなります、全部電子版になって。日本は利権がからんで遅れていますが、アメリカに行ってごらんなさい。アメリカの医学生は、入学したらiPadを渡されて、教科書とか雑誌は買わなくて良い。これからは本なんて買いませんよ、誰も。

三巻:たしかに日本で電子書籍も普及が遅いっていうのは利権でしょうね。でも、少なくても論文はインターネットでどこでも手に入るようになりましたね。

只野:あれの良いのは、参照すべき論文がすべて出てくるということ。紙の時代は、人によっては敵対するような奴の論文はわざと載せなかったり、自分の仲間の論文を参考文献として出したりするんです。今はそれが出来ないですよ。検索すれば、関係する資料は全部出てきますから。インターネットで仲間を募るんです。俺は錬金術に片足を踏み込んだらしいと。鉄から金を作れそうだと。誰か参加しないかと出してごらん、わーっと来るから。これが今のコンピューター社会の面白いところ。そりゃガセネタから何からいっぱいありますがね。

三巻:そういうことが1000に1つでも当たったらすごいことになるというのが、インターネット社会の力なんでしょうね。

只野:だから、保田さんのテーマに仲間が集まれと。今のパソコンは、10万円も出せば、使い切れない性能です。世界中の脳みそを持って歩いているのと同じですよ。フェイスブックにも専門家集団っていうのがあります。僕が入っているのは、医学に関係している人たちと広がっていくわけです。保田さんだったら、物理学のことを載せればね、たちまち何万人っていう仲間が一瞬でできる。だからこれから古いスタイルの学会は存在意義を失うと思います。集まってホテルで懇親会なんて、まったく意味がありません。

三巻:今日のお話をお伺いしていて、保田さんが現役を退かれた1990年代くらいから臨床検査の自動化については、あまり進歩してないようですね。1990年代から、例えば患者は増えないから、処理能力もいらないし。

只野:1965年に自動分析を始めて、72年に特研を組んで、それから競争があって、80年から90年までに、シングルマルチとか、その時点でその時点で革命的な技術が何年かおきに出ました。ところが1990年代になって、何一つ革新的な進歩がありません。僕が唯一期待していたのが、情報系を検査がどれだけ取り込んで、医学情報を全部集約して加工して出すのを検査部が作ることでした。

三巻:そういう意味では、未だにそこに到達しているメーカーはないですね。

只野:ないです。

三巻:ロシュにしてもシーメンスにしても。何かやろうとはしていますけど、見つけられてないですね。

:保田さん、どうも僕らは良い時に定年を迎えましたね。大学で好き勝手なことをして予算を何年かおきに、どんと付けてもらって、新しいものを作れた。だけど、今の人はかわいそうですよ。牧野さんとうちの父がよく、俺たち儲けたのか儲けてないか分からないけど、楽しかったよなあと言ってたね(笑)。楽しかったでしょうねえ。

三巻:先生、それが今日の結論では、ちょっとさみしいですね(笑)。

只野:さみしい。だけど何か今の人たちには、そういう楽しさがないのじゃない?

三巻:ヨーロッパ、アメリカ、中国とか韓国とかそういう人たちと仕事をしてみると、やはり日本の今の若い人たちが徳川時代の鎖国状態のような非常に内向きの世界にいると感じます。たとえばヨーロッパにしてもアメリカや中国にしても若い人たちの勢いっていうのは、全然違いますよ。アメリカのエリートは本当に勉強するじゃないですか。全員が全員ではないけれど、アメリカでは勉強してる人間はものすごく勉強するわけですよ。

只野:私の息子は米国の大学に4年いたんだけど、満足に寝た思いがないといっています。毎日山のように宿題を渡されて、それを夜中かかって書いて、コンピューターに入れて渡すともう次の日にはコンピューターの上に全部が添削してある。それが毎日4年間続くわけだから。僕はアメリカで臨床した4年間、ゆっくり休んで寝たって記憶はありません。4年間休みなしに徹底的に勉強させられた。

三巻:日本では、たとえば東大に入学しましたとか卒業しましたとかいうのが出て来ても何か薄っぺらいんですよね。対談の最後に若い人に一言ありませんか。

只野:たとえば日立は日立で、保田さんたちの時代にも変なのはいました、普段は使い物にならないような人です。この人たちの中に何かの時には飛び抜けた才能を出す人っていうのがいるんです。それを会社が抱えて置けるだけの余裕があったと思います。それは、その人が会社に入って最後まで駄目でも良いということ。だけど当たるかもしれない。それがなくなった、余裕がなくなったんだね。

三巻:今の世の中に野村靖さんがいたらどうなったでしょうね。

保田:変人だよね彼も。僕は、野村君の良い所も知ってるけど、悪い所もあったからね。

三巻:私は野村さんの直属の部下でしたから、野村さんに出会えたのはありがたかったなあと思います。

只野:この歳になったらとか、こういう地位になったらとか、社会にはある程度そういうレギュレーションっていうのがある。あの人はそんなのが関係ないんだから。

三巻:悪い意味じゃなくて、たぶん野村さんってご自身もコンプレックスっていうか、あの人なりの屈折したものもあったと思うんですよ。でも野村さんはそれをバネにして、夜も寝ないで仕事してたとかみんな笑うけど、あの裏には野村さんなりの、俺はやってやるんだっていうのもあったと思いますよ。

保田:もちろん彼のことだから色んな問題は引き起こしましたけど、それらを僕はあんまり気にしてなかった。今でも野村君のお墓には毎月一回ずつ行ってるんです。

三巻:保田さん、今日は貴重なお話を本当にありがとうございました。

【写真:サンディエゴのIFCCの会議の時に只野先生と(撮影は徳安先生)】


【写真:平成10年(1998年)紫綬褒章を受賞、奥様と】